2014年 06月 19日
わたしのだいすきなひと。 |
彼はコンピューターのおかれた机の前の椅子の背凭れに身を預け、両手を天井に突き伸ばし、「うーん」と云って伸びをする。 ひとくぎりついたのだな、と思い、わたしは「お茶でも呑みますか」と尋ねる。彼はわたしの方を見て、おいでおいでと手を振る。
近くまで寄ってゆくと、彼はわたしの手を引き、膝の上に乗せる。彼はわたしよりうんと背が高いので、そうしても少し見上げる恰好になる。そうして、彼は、猫でも撫でる様に、わたしの頭をくしゃくしゃと撫で廻す。わたしも猫になった様に、それを心地よく受け入れる。
痩せた薄い胸板に、頭を持たせかけると、彼はわたしの腰に手を廻す。 静かな午後。
猫のわたしは、いつまでも彼に抱きかかえられて居たいと思う。 古びた卓袱台で、ふたりしてほうじ茶を飲む。彼の吸う煙草の烟りが、螺旋を描いて天井の換気装置に吸い込まれてゆく。 築二十五年の古いアパート。ふた間の部屋と、タイル張りの台所。狭いせまいユニットバス。それでもわたしは、彼さえ居れば、どんなにせまく汚い処でも幸せだった。この部屋は、寧ろ贅沢な程だった。
ふたつ半年下の彼――彼はみっつ上と云うのだが。彼の誕生日が十二月二十九日で、わたしの誕生日が六月の三日。半分みっつ違いになり、半分ふたつ半違いになる。だから、彼の云うことも、わたしの云うことも、どちらも正しくはあるのだけれど。
長めの前髪を時折かきあげ、彼は湯呑みを両手で包み込む様にして、ぼんやりして居た。
今日は土曜日。
わたし達は同じ職場で働いて居る。彼はわたしの「後輩」に当たる訳だが、それを特に気にして居る様子はなかった。
お茶を飲み終えると、彼はわたしの顔を覗き込む様にして見つめ、退屈じゃないかと尋ねた。わたしは曖昧な笑顔を浮かべたが、彼は「いいことを思いついた」とばかりに立ち上がり、
――散歩に行こう。
と云った。 二日続けて雨が降り、今日はうって変わって、からっとした五月の青い空が広がっていた。 寝間着の侭だった彼は、服に着替え、ジーパンのポケットに財布を突っ込んだ。出掛ける支度はそれで終わり。実に簡単である。男のひとは皆そうなのだろうか。 わたしも化粧をしないので、普通の女性よりは支度が早いと思う。鞄に財布、携帯電話、幾台か所有しているうちから選んだカメラを突っ込む。写真を撮るのは、わたしの唯一の趣味である(とは云っても、アナログの一眼レフやらの専門知識が必要なものではなく、ただのコンパクト・カメラばかりだ)。
ただ、他人と一緒の時は、撮りたいと思ったものを見つけても、なかなか思う様には行かない。カメラはいつも鞄の中に入っているのだけれど、あいてに待ってくれとは云い辛い。
けれども彼は、わたしが写真を撮ろうとしてカメラを手にすると、立ち止まって待って居てくれる。あれこれ角度を変えて、わたしが撮るものは、ひとからすれば「なんでそんなモノを」と思われるだろう。彼が何う思っているのか判らないけれど、わたしが満足のゆくまで撮るのを、ただじっと待ってくれて居る。時々、興味深そうに、わたしが撮っているモノをじっくり眺めたりもする。 わたしと違って、交遊範囲の広い彼は、他人に合わせる術に長けているのかも知れない。
わたしたちの住むアパートは所謂下町にあって、周囲の風景は、住宅街で育ったわたし達には興味深いものがあった。 昔からある定食屋や居酒屋、焼き鳥屋に混じって、閉店を余儀なくされた商店街の店舗を若いひと達に格安で貸して、なんとか街の活性化を図ろうとしている様だった。その、若者達が開く店は、あっという間になくなってしまったり、常連客を抱えて何年も続く処もあった。それらの若々しい感性で彩られた店は、無彩色の街にカラーインクで色をつけた様にみえた。
彼は見掛けによらず、そう謂った、若者達が好む店より、昔乍らの居酒屋や定食屋を好んだ。彼は所謂、最先端の服装をして居たり、特別目立つ恰好をしている訳ではないのだが、どうしてもひと目を惹いて仕舞うのだ。何故ならば、背が高いが華奢で、色白で、眉は細いが、切れ長の瞳は大きくはっきりとして、椅子になど座って居ると、長い手足を持て余している様にさえ見える。薄い唇が酷薄な印象を与えるが、それさえも魅力的に見えてしまう。
つまり、美形なのだ。
それなのに、人懐っこく、よく喋るので親しみ易い。
だが、ある時、寝床の中で、
「他人ってなんだろうな」
と彼は呟いた。 他人とはすれ違ったりするひとではなく、知り合いのひとのことですか、と尋ねた。「そう。おれ、他人がナニ考えてんのか判らなくて怖くなることがある」
その言葉はわたしにとって意外なものだった。ひとに囲まれてにこやかにして居る彼の言葉とは、とても思えなかったからだ。他人の考えて居ることなんて誰にも判りませんよ、と云ったら、彼は「そうか」と云って、雨染みの散った天井を見上げた。そして、空を見上げた侭、「でも……、おれ、おまえの考えてることは何となく判るよ」と呟いた。
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by tirutiru-sasa
| 2014-06-19 20:21